審査員講評

菊池佳南氏

 

東北大学学友会演劇部『君は妖怪に為ってしまった』

全編通して流れる台詞の色味や、文芸部のカラーのようなものが香る言葉選びが面白かったです。俳優それぞれも登場人物の人間性を加味した造形で演じていたのが好感が持てました。特に前半に登場する2年生と1年の山田くんの掛け合いは、しっかりとリアルな中学生の会話らしさを感じ、そこに独特の面白さが加わって見応えがありました。部員同士のコミュニケーションの不協和をコミカルに描く前半と、部員で同じような息苦しさを抱えている先輩と後輩同士の共通項の問題をめぐる会話の後半。

だからこそ、プロット段階でもっとストーリーに活かせる登場のさせ方を磨けばさらにいい戯曲になると思います。後半で印象付けたい登場人物は前半で伏線を張ったり、メインの引き立てとなるコミカルな登場人物は後半にも登場するとコントラストが出ると思います。

後半登場する絵や、俳優の声量など、ホールの規模感に合わせた大きさを調整していく必要を感じました。

 

劇団ざくろう『永いハル』

俳優の声と身体、見せ方のバランスが非常に良く、軽妙かつ楽しい言葉選びの台詞がすんなりと入ってきました。だからこそ、舞台に置かれた色紙や、探偵風の衣装、素足に照明のフォーカスが当たるなど、俳優の演技以外の、目が行ってしまう演出に意図があるのかが個人的には気になりました。意図はあっても、戯曲の台詞で回収しきれない作品の説明のために使われていないか、そしてその説明は本当に必要かどうかをさらに検討していくとよりブラッシュアップされた強度ある作品作りができると思います。在仙の劇団として、今後も骨太な活動を期待しています。

 

尚絅学院大学演劇サークル尚劇団『エトワール~輝くわけとは~』

二次元的なキャラクター造形を、演劇で演じる面白さや憧れがたくさん詰まっているこだわりを、衣装やメイク、振り付けなどからも感じ取られる力作だった。一方で、演劇として生身の俳優が三次元で演じる時に生じる違和や気恥ずかしさを払拭し、さらに強度ある作品にするために、さらに踏み込んでほしいように感じる点もありました。

人物造形やセリフをもっとより現実的にリアルな方へと作り込むか、もしくはより簡素化もしくは詩的にしていくか、いずれを選ぶにしろ、戯曲の描きたい世界観は共有できていたように思うので、その世界観や思い描く表現方法、こだわりたい部分をこれからも大胆に打ち出して行っていただきたいです。

 

東北学院大学演劇部『Mr. my friend No.nine』

舞台装置、選曲も含めた音響、照明効果の相互効果をよく考え総合力で取り組んだ作品だったように思います。既成戯曲を用いて、スタッフワークも含めてチームで作品全体を考えていたように感じました。だからこそ、演じ分けを敢えて見せてみたり、扉の外と内を効果的に使用してみたり、戯曲の指示よりも暗転を減らすなど、演出的なテクニックをより磨いていくとさらに戯曲の持つ面白みが伝わるように感じました。また暗転中の転換の物音が気になりました。音楽をかけるなどしてもよかったかもしれません。

パストが物語の軸として変わらないことに象徴されるように、戯曲のリズムが単調になりやすいものこそ、音響効果や照明、演出的な仕掛けの工夫で、変化をつけることで観客の集中は保たれると思います。舞台芸術らしい総合力で、引き続き多様な視点からの作品作りへのチャレンジを期待しています。

 

劇団ダダ『悦に浸れないなら死ね』

戯曲の巧妙さと、それを支える俳優の演技のリアリティと説得力が抜群でした。

会話を追ってだんだんと人物の関係性がわかってくることで観客の興味を惹きつけ、謎を残すことで引っかかりを作ってあり、自然と集中をさせる構造となっていたように感じました。俳優のリアルな身体と発語が、口語体の戯曲の面白みをしっかりと下支えしていたように思います。ラストシーンをはじめ、作品に出てくる余白をどう解釈するかについて、観客に委ね、受け手によって見方が変わることを受容していることも、演劇が演劇たる素晴らしい要素をよく理解し自分達のものにしていると感じました。

 

宮城学院女子大学演劇部『ひだまり』

メンバーの皆さんの素朴さや人柄がそのまま作品に表れているような舞台だったと思いました。背伸びをしない等身大の演技は好感を持ちました。カフェでひなたと玲亜がお茶をしているとそのお店でバイト中のリリカが来る、というシーンは、気まずいシチュエーションを作る秀逸なプロットだと感じました。一方で、お金と友情、貧困と裕福、ということを描くことの危うさ、繊細さも同時に考えていくと良いかと思います。「お金持ち」=贅沢をしている、友達がいない、親が監視している…「貧乏」=片親、優しい、いい子…など、その事柄がもつイメージは自分の中で固定化されすぎていないか?ということを、よくよく考えてみるとより深く作品を描くことができるかもしれません。作品作りを通して、あたたかい仲間たちと共に、より人間や社会について思いを馳せる学生生活を送ってください。


広田淳一氏

 

総評

まずはコロナ禍の最中にあっていったん途絶えていた「とうほく学生演劇祭」を再開できたことの意義はとてつもなく大きく、そのことに最大の賛辞を贈りたい。しかも、本年はとうほく学生演劇祭にとってのホームグラウンドともいうべき10BOXシアターが改修中で使用できず、本来ならもう一年先送りになっていてもおかしくない状況があっただけに、ご協力くださったパトナシアター様を含め、本年にこの企画を立ち上げ、見事にやり終えた実行委員の功績は大きく、何はともあれこのタイミングで演劇祭がリスタートしたことの意義を強調しておきたい。

さて。あまりこの話ばかりではいけないが、やはり今の世代の大学演劇にとって、コロナ禍の問題は大きな困難として立ちはだかっていたことと思う。その意味で、全演目終了後の公開講評の冒頭、言わずと知れた仙台の劇団「短距離男道ミサイル」の本田椋さんがしてくれた話はとても印象的だった。

「僕が学生の頃はちょうど震災があったんです。いろいろな葛藤がありました。演劇をやれるのか? いや、やっている場合なのか? そんなことを話し合いました。もちろん震災は大変だったけれど、でも、その時は顔を合わせて議論することも、稽古することもできた。今の状況はある意味でそれを越える」と、そんなお話だった。本田さんが震災の話を始めたとき会場の空気がグッと凝縮されたように感じた。やはり、何かを乗り越えてきた人の話は説得力が違う。傷つき、打ちのめされて、立ち上がる気力すら無くなってしまったような時間のあとで、いかにしてもう一度、重い腰を上げるのか? 前を向き、歩を進めるのか? 立ち止まることを余儀なくされた体験が、仙台で、「とうほく」という場所で、引き継がれていく瞬間を見た思いだった。

演劇祭全体の作品傾向としては様々な趣向を持った作品が混在し、良くも悪くも、非常にバラエティに富んだ演劇祭だったといえるだろう。強いて全体の傾向を挙げれば、現代口語による会話劇が多く、ムーヴメントやダンスでの表現よりは、あくまで台詞/会話で見せる作品が多かったと言えよう。その中で、尚絅学院大学「尚劇団」の作品『エトワール ~輝くわけとは~』は舞台空間を縦横に駆使し、演劇祭全体の幅を大いに広げてくれていた。ただ、多様性があったことは確かに豊かさではあったのだが、一方では、舞台作品として最低限これは抑えておくべき、といった共有されるべき知識が崩れてきてしまっている印象もあり(たとえば暗転中の移動音をいかに抑えるか、など)、スタンダードを共有できないことによる基礎力の低下という問題もあったと指摘しておきたい。

しかし、総じて作品からはのびのびとした空気が感じられ、それぞれのチームが自由闊達に好きなことを突き詰めた様子が窺われ、若い世代の創作へのモチベーションを強く感じさせてくれる演劇祭だった。

 

東北大学学友会演劇部『君は妖怪に為ってしまった』

まず注目すべきは状況設定だろう。大学生たちがあえて「中学の文芸部」の一年間の過ぎゆく季節を描く、という情景を選んだことが非常にユニークで興味深かった。というのも、自分の大学生の頃を思い返すにつけ、大人になりたい、背伸びをしたい、と感じる傾向も強いであろう大学生たちが、あえて自分たちよりも若年の高校生、ですらなく中学生を描く、というところに作り手の明確な意思が感じられた。おそらく、若者であることの精神の瑞々しさと、大人になったからこそ獲得した客観性によって、今の自分たちだからこそ中学生の繊細さと愚かしさをリアルに客観化できる、と考えたのではないだろうか。冒頭、説明的な台詞を一切用いず「口を糊す」という記述を巡るやりとりから、だんだんと中学の文芸部が舞台となっていることを観客に想像させるくだりは導入として巧みで心憎かった。

物語は文芸部の日常を描きながら春・夏、再び春、と時が進んでいくのだが、やがて、能力が高いゆえに他の文芸部員たちから少し浮いてしまっている一年生の優衣と、同じく優秀ではあるが協調性も兼ね備えた三年の美月とを軸にクライマックスを迎えていく。終盤、美月の卒業式の日にふたりは直接対峙し、一年生の優衣が他者への鋭い批評をすべて封印してしまったことを美月に指摘される。不満を感じているらしい美月は、こう告げる。

「別にいいじゃん。なあ。そんな、何人かから嫌われることぐらい。/嫌われたくないなんてカッコ悪い理由で、自分の好きなもの曲げるくらいなら……。」

おそらく作家はこの終局の台詞へと物語を導くべく、冒頭から周到に伏線を張っていたのだろう。美月が告げるこの台詞は決して先輩から後輩へのお説教ではなく、むしろ美月が「妖怪好き」という自分の個性を偽り、封印してきてしまった「弱さ」への自嘲混じりに吐き出される台詞になっていたのだ。

この場面において顕在化したのは、「出る杭は打たれる」的な旧態依然とした悪しき日本の精神性と、個性尊重という「お題目」との狭間で、いかにして協調性と個性を破綻なく両立させるか? という非常に現代的なモチーフであった。本作で描かれた生徒たちの心理は普遍性を持ったものであり、戯曲としての志の高さは大いに評価されるべきものだったと思う。惜しむらくは、その二人以外の生徒たちの存在がやや背景描写に終始してしまったことだ。非エリートである彼らから発せられる言葉が全体の劇構造において決定的な重要さを持っていれば、更にこの作品の強度は増しただろう。

俳優たちの演技は戯曲、演出の意図に応えて総じて好演だったが、その運動量の少なさは残念でもあった。全員で前を向いて座ってしまう時間帯が多く、空間的にはやや単調な印象にはなってしまった。このような会話主体の劇で舞台空間をダイナミックに使うことは難しかったろうが、そこにもうひと工夫あれば、さらに良い演出になったはずだ。

 

劇団ざくろう『永いハル』

「消費者金融の相談窓口、その電話相談事務所の休憩室」という、ちょっと変わった場面設定で展開される三人芝居。場所も時間もある意味ではひと続きのオーソドックスなスタイルの中で、主に主人公の女、「永井さん」の長広舌を軸に物語が展開していく。「永井さん」はなぜか消費者金融の相談員に対して不倫の相談をし、受付の男・「田中」は、ここを「探偵事務所かなにかと勘違いした」のかと戸惑いながら、適宜ツッコミを入れつつ、おかしな相談者の話を聞いていく。

この会話のやりとりがなんとも軽妙で面白く、とくに「田中」の合いの手が演技も含めて絶妙なバランスで成立しており、知らず知らずのうちに観客はこのとりとめもない、場にそぐわない「相談話」に引き込まれていってしまうのだ。俳優三人は、ともすれば座りっぱなしになってしまいそうな状況設定の中で「永井さん」役の俳優を中心に活発に動き回り、非常にパワフルな演技を披露していた。途中、ワンシーンのみしか登場しない「相澤」も一瞬で場の空気を変える溌剌とした立ち居振る舞いで大いに存在感を示した。

「相澤」の登場以後、劇の意味はガラりと変わる。実は「田中」と「永井さん」はたまたま休憩室で出会った他人同士ではなく、幼なじみであり、しかも、すでに「田中」は死んでいるということが判明するのだ。「登場人物のうちの一人が実は死者だった」というのは演劇においてはよく見られる筋書きで、この展開はややありふれたパターンだとは言えよう。ただ、そういった「読めてしまう」展開ではあったものの、一見まったくの無駄と思われる世間話が実は本筋に絡んでくる、といった伏線の張り方は巧みで人を引き込む力があり、今後の創作に期待したい作家だった。ラストに向けて、改めて行う幼なじみとの「今生の別れ」のシーンは出色だった。途中から死者である「田中」の声は「永井さん」に届かなくなり、姿も見えなくなってしまう。観客はすれ違うふたりを見ている中でその断絶を感じていくのだ。最後に「田中」が残した小道具の帽子を「永井さん」が拾い、また、ふたりが共同作業として行った「深呼吸」という行為が反復された。そのことによって切ないながらも、新しい一歩を確かに踏み出していく力強いラスト・シーンとなっていた。

 

尚絅学院大学 演劇サークル尚劇団『エトワール~輝くわけとは~』

演劇祭の中で異彩を放っていた本作。冒頭からダンスが始まり、広いパトナシアターの劇場空間を縦横に駆使して身体性の高い舞台を作っていた。空間構成も巧みでムーヴメントは非常に効果的に筋書きの中に取り入れられていた。物語としては、星たちが人格を持って話をし、ウミヘビやタコの役が出てくるなど、大いに寓話的想像力に満ちた作風だったのだが、その作品の世界観を、衣装・メイクなど、ビジュアル面にもこだわりつつ、スタッフワークを絡めて総合的にしっかりと構築していた。作品の冒頭、第一声が「私は光!光は私!見てこの光を、この輝きを!」であり、一気に非日常の世界に観客を連れて行く大胆な始まり方だった。その度胸の良さが45分という上演時間の制約の中で、一気に世界観を提示するに良い効果を生んでいた。

星屑たちのストーリーから「転生」、「前世」などという単語が飛び交うあたり、この作品は演劇の歴史の中から紡ぎ出された一作というよりは、むしろ新海誠的想像力とでも言おうか、アニメや漫画などの世界観、自由さから大いに刺激を受けて発想された作品のようにも思えた。星屑たちのストーリーが転生後にいわゆる学園モノとして日常へ回帰してくるあたりも、舞台芸術の文脈というよりは、サブカルチャー的な想像力のなせる業だったのだろう。

一見、演劇の歴史から断絶したような印象を受ける作品ではあったし、事実、ストーリーにおいてはそういった指摘は必ずしも的外れではないだろうが、むしろこの作品においてもっとも舞台芸術の身体性が追求されていたことは興味深かった。人間ではない役柄を演じるために、俳優たちは非日常的な身体を要請されることとなったのかもしれない。今作においては単にダンスシーンが組み込まれたことに留まらず、劇中、台詞のシーンにおいても身体性を活かした作劇が徹底されていたことは終盤の日常パートを際立たせる上でも非常に大きな効果を上げていた。

最後に、全体としてチーム力を非常に強く感じる作品だったことを指摘しておきたい。作家に加えてふたりの演出家がいる、という珍しいチーム編成であることも影響したのか、戯曲に対して多角的なアプローチで演出が試みられた様子が窺えた。スタッフワークも積極的に活用し、会話シーン、ダンスシーンも織り交ぜるなどとにかく引き出しが多く、その豊かさがアイディア豊富な個人から出てきたのではなく、あくまで複数人によるチームとしての創作から出てきたことは大いに評価したい。

 

東北学院大学演劇部『Mr. my friend No.nine』

恐らくは人類滅亡的な状況のあとの世界で綴られる、二人で三役を演じるという変則的な二人芝居。既成台本での出品ということで当然ながらその演出、演技に注目して観た。まず目を引いたのは、かなり大量に作り込まれた舞台美術だ。演目ごとの準備時間は短く、厳しい時間的な制約がある中、かなり積極的に多くの美術を配置していた。その物量が作品世界の閉塞感にある種の説得力を持たせていたし、東北学院大学の持つ、スタッフワークを含めた総合力というものを感じさせてくれた。

演技においてはふたりとも好演だったと言えるだろう。「ナイン」と「アスク」という同時には舞台上に存在することの無いふたつの重要な役を一人で演じた俳優は全編に渡ってエネルギー溢れる演技で物語を牽引していたし、パストという、永遠の命を授けられたロボット(少女)を演じた俳優は真心あふれる演技で舞台上に存在し続け、物語の心理的な部分に大きな軸を一本通していた。

ただ、全体としていろいろな情熱、努力が作品にひとつの方向性を与えられていたかというとやや怪しい。まずは一人の人間が二役を舞台上で演じる、ということについてのアプローチがやや実直に過ぎたように思う。暗転が多く、役が切り替わる度に丁寧に中断が挟まれてしまうので、どうしても劇が持っているリズム感、スピード感といったものがその都度、減じられてしまったのだ。パスト役に関してもせっかくロボットという特殊な設定なのだから、もっと身体/演技レベルでの挑戦があってもよかったはずだ。もちろん、あくまで小細工的な演技に走らず、人間として誠実に演じた上演であったからこそ成立した部分も多くあったろうが、たったふたりでかなりスケールの大きな話を描ききるのだから、どこかでスケールの大きさを観客に感じさせなければならなかったはずで、やはり、日常的な身体表現だけでは、「人類が死滅してしまったかもしれない世界で生きるロボットたち」というものすごい風景を描ききるには、もうひとつ説得力が足りなかったようには感じてしまった。

この演目に限った話ではないが、全体的に暗転がかなり多用されてしまっている印象を受けた。やはり映画、アニメなどでドラマ作品を見ている経験が多いと、どうしても気軽に大掛かりな場面転換のシーンを作ってしまう傾向にあるようだ。舞台作品においては、当然ながら、映像メディアのように瞬間的には場面が切り替わらない。したがって暗転というものはよほど注意深く、効果を狙って使用されるべき最終手段だろう。実はどんなに場面が切り替わろうとその気になれば暗転など全くしなくても演劇は作れるのだ。そのあたり、先行する舞台作品から様々な使える方法を学んで来たらいいのではないかと思う。

 

劇団ダダ『悦に浸れないなら死ね』

大いに謎が残る問題作だった。隠喩に溢れた言葉たちや、様々な形で示される性的抑圧の徴候は大変魅力的な表現ではあったが、同時に混乱を呼びもした。会話のやりとりにも所々に行き過ぎた飛躍があって、時折、話の流れを見失いそうになりながら、食らいつくような思いで観た。決して見やすい作品ではなかった。その見づらさは作り手の意図した部分もあり、また、単に不親切になってしまっていた部分もあったことと思う。しかし、それでもこの物語が描こうとしているモチーフとそれに対するアプローチには独自の視点/手つきが感じられ、その挑戦的な姿勢には大いに興味をそそられた。

大きな枠組みで言えばこの物語は、「妻を亡くした俳優が長い否認の時期を経てその死を受容する、そのプロセスを辿った劇」と読むことができるだろう。周囲の人間と主人公・「青木」の会話は序盤から様々にすれ違い、小さな衝突を繰り返す。それらはすべて、妻の死を受け入れていない「青木」と、そのことに触れないようにしつつも、青木の妻の死を理解している周囲の人間との間で生じる齟齬/軋轢なのである。あるいは、青木を中心にしてこの物語を読み解けば、かなり複雑な心理的葛藤の中で悶え苦しみ続ける物語だとも言えるだろう。青木は何らかの病気(性病?)によって妻と性関係を築くことができず、性的充足感を得る前に妻を亡くしてしまっているのだが、一方で物語の中には「性的なことが幽霊を退ける」というテーゼが提示されもする。つまり、青木にとって妻との交わりは、肉体的な死と、霊的効果としての除霊という形で二重に禁止されているのだ。青木は妻を求め、肉体関係を希求するのだが、実際上も、妄想上も、その願望が果たされることは決してない。

また、登場人物が俳優という設定なので、劇中劇の構造が採用されているのだが、劇の中の「現実」と、劇中劇すなわち劇の内部の「虚構」が、まさに虚実入り交じるストーリーになっていることも観客にとっては大いに混乱させられる展開ではあった。劇中劇においても主人公の「青木」は、死後の世界から蘇ってきた妻と対峙し、会話を行うのだ。それにしても、この場面における「モリージオ」という特殊なキャラは魅力的だった。女優/絵美役の適切なツッコミもあって全体の中でも際立って面白いシーンに仕上がっていたと言えるだろう。

さて。ここまで書いてきたように本作は描こうとしているモチーフがかなり複雑なものであり、その表現方法にもある種の難解さがあった。しかしながら、物語を通じて描かれているのは究極的には「青木」と妻の関係性でしかなく、その意味で、構造的にはむしろ非常に強固なシンプルさを備えていたとも言える。

物語の最終段はすばらしかった。最後のシーンにおいても「青木」は妻を生きているものとして扱っている、ようにも見えるのだが、その実、幽霊としても扱っている。つまり、最終シーンにおいて「青木」は不完全ながらもようやく妻の死を認める、受容するに至るのだ。ただ、妻の死を受容しつつある夫に対して、妻(の幽霊?)はきれいな遺言を残して去っていったりなどしない。そこで交わされるやりとりが、こうだ。

青木  ……アカネは……生きてるの?

アカネ  どっちでもいい。

青木  え?

アカネ  わたしはあなたが見えているし、あなたもわたしが見えてる。これだけでいいじゃない。

そして「青木」はベッドの上で手招きする妻に向かって、吸い込まれるように消えていく。暗転の中に消えていく「青木」の姿で劇は終わるのだが、最後まで観ても観客にはその情景が何を意味しているのか決定することができないのだ。「青木」は妻によって死後の世界に引きずり込まれてしまったのか、あるいは、「青木」は妻の思い出を胸に秘め、社会的な生活へと帰っていく復活のラストなのか、どちらかの風景なのかがわからないのだ。この極端に異なる二重の解釈を可能とするラストに向けて物語は周到に準備されていた。私がこの作品を高く評価したのは、このような理由に拠ってである。

 

宮城学院女子大学 演劇部『ひだまり』

直前に上演された劇団ダダの作品から一転して、非常にわかりやいプロットを備えた、直球すぎるぐらい直球の、ハートフルな物語だった。女性四人で紡がれるこの物語の主軸となるのは、「友情とはなにか?」という極めて王道的なテーマであった。

物語は、コミュニケーション能力に自信は無いもののお金持ちである一人の生徒(玲亜)が、お金で友情を買い漁っているシーンから始まる。やがて彼女の前にお金をまったく要求しない「変わった」友達、ひなたが現れて、玲亜はお金以外のものによって他者と繋がる方法を学んで行く。

途中、玲亜とひなたの間には深刻な危機が訪れる。些細な誤解から玲亜の中には「ひなたも結局は金目当てなのではないか?」という疑惑が生じ、ふたりの関係性は一度、崩壊を迎えそうになるのだ。最終的に誤解は解け、玲亜とひなたは強い友情を築くことに成功する。その後、こんなやりとりがある。

ひなた「(前略)もうお金を渡して友達つくろうなんて考えちゃ駄目だよ。」

玲亜「わかってるよ。それに、もうお金以外の方法を見つけたから、大丈夫。」

ここで玲亜が語っている「お金以外の方法」とはなんだろうか。それは、言うなれば分かち合いということではないだろうか。物語の当初、「与える」ことでしか他者との関係を作れなかった玲亜は、ケーキのシーンにおいて「与えられる」という役割を獲得して相互性の段階に入り、展望台のシーンにおいてひなたに導かれ、「孤独をわかちあう」という水準まで友情を深めていく。極めてシンプルで、これ以上無いほどわかりやすい物語展開の中に、しっかり複雑な細部を描いていたのはこの作品のすばらしさであったろう。

俳優たちは四人とも非常によく演じていた。玲亜のリアル過ぎる不器用さ、ひなたの真っ正直な情熱、そしてなんといっても、金で動いていたふたりの「友人」の、活き活きとした悪人ぶりには胸のすくような思いがした。終局では「友情の肯定」というかなりキレイな主張をする芝居であるこそ、悪人が活き活きとちゃんと輝いていることは陰影の妙として絶対に必要であり、作品が甘くなりすぎることを防ぐ決定的な効果を出していた。


本田椋氏

 

東北大学 学友会演劇部『君は妖怪に為ってしまった』

脚本にセンスを感じました。作家の伝えたい主張・主題が明確に伝わり、思春期の繊細な心の在りようを丁寧に描こうとしていることに好感を持ちました。

特に主人公と「先輩」が抱える共通のテーマである「人と違う個性にどう向き合うのか」ということを「妖怪・もくもくれん」というユニークな切り口から描こうとしたのは面白かったです。

一方で、他の登場人物にも、必ず「人と違う個性」は存在するはずで、その一人ひとりの人間をどう捉えて造形していくのかという部分がもう少し舞台に表出されていると舞台上の人間がより息づいてくるように思います。

俳優の演技に関しては、等身大の感覚で素直に演じていて好感を持ちました。

少しセリフが聞こえにくいところもありましたが、それぞれの俳優の魅力と個性は伝わりました。

ただ、俳優間の会話のやりとりは現代口語演劇でありながら芝居の方向性としては非常に正面性が強く、演出面との齟齬があったように思います。

舞台装置に仕掛けを施したり、全く異質な音楽や時間を差し込んだりする場面転換も評価したいです。

チャンネルをザッピングするように舞台上の景色が変わっていくことが現代的な感性による新しい可能性なのかなとも思いました。ぜひ演劇の持つ「遊戯性」を突き詰めて、演劇を遊び尽くして欲しいと思います。

東北大のチームとしての成長も、作家個人がこれからどのような作品や主題を描いていくのかも楽しみにしています。

 

劇団ざくろう『永いハル』

この作品は、3名の俳優それぞれに不思議な魅力を感じました。

主演の荒川瑞希さんは大胆な感情表現で観客を味方につけていたように思いますし、相手役の田川遥さんは、しっかりと相手のセリフを受けて駆け引きしていくことで、観客がストーリーを楽しく味わえるように尽力したと思います。

また、ワンポイントで登場した米山陸さんは役割に徹した演技を見せ、しっかりと舞台の上の空気を変えることに成功していました。

俳優の奮闘が光る一方で、場所設定の問題点を感じました。

なぜ「消費者金融の相談窓口」という非常にローカルな場所設定なのか、その必然性が最後まで納得できなかったことは残念です。

特殊なシチュエーションなので、そこには「場所そのものが持つ面白さ」があるはずです。そこをもっと深堀して、空気感や匂いが観客に伝わってくると、もっと楽しめたのではと思います。

演出面では、しっかりと俳優と演出の間でコミュニケーションをとって、対話を重ねてお芝居を作り上げたのだろうということが伝わりました。

また小道具や音響・照明効果で意味づけや方向付けをしようとしていたことも評価したいです。

ただ、それが二重説明になっていないかは検討してみて欲しいです。過剰な説明は、観客から想像力の余地を奪ってしまうことにもなりかねません。

俳優自身が楽しんで演技していること、楽しく創作を重ねてきたことは、作品全体から伝わってきました。ぜひ、これからも、より深く、より密に対話を重ねて、次のチャレンジに臨んでいただきたいと思います。

 

尚絅学院大学演劇サークル 尚劇団『エトワール~輝くわけとは~』

自分たちの描きたい世界観や想像力をヴィジュアル化することに最も取り組んでいたチームだと思います。作品全体が一つの美意識にまとめられていました。

好きなものを形にして、それを誰かに伝えるということは、とても勇気が必要なことです。

そのチャレンジと、座組全体がまとまって努力を注いだことを評価したいです。

また、ダンスや身体表現を駆使して、イメージを共有しようとしていたチームも尚劇団だけでした。

一方で、イメージを(観客と)どのように共有していくかという作業や手法にも、注力して欲しいと感じます。その点では、過去の手法の模倣や再生産になってしまっている箇所がやや多かった印象です。

人間はイメージによって大きな影響を受ける生き物です。そして、そのイメージによって心や身体の在りようも変わっていきます。

その変化を観客がありありと体感できるまでに、詩情に満ちた独特の世界観を深めていって欲しいです。今後も勇気を持って、チャレンジし続けて欲しいと思います。

 

東北学院大学演劇部『Mr. my friend No.nine』

唯一の既存台本を使用したチームでしたが、戯曲をシンプルに立ち上げており、非常に物語がわかりやすかったです。

一方で、作品解釈を広げたり、深めたりする作業は足りていない印象があります。

「終末期の世界における密室劇」という設定をどうしたら観客に納得してもらえるのか、演出、スタッフワーク、演技、全てのセクションから本質に迫るための思考と試行が必要だと思います。

ドアがこの作品の中で、重要なモチーフであることを掬い取り、それを舞台美術に据えたことは良い点です。

どことなくアメリカンヴィンテージ風の美術のビジュアルだけで一定の世界観を提示することにも成功していました。「1800mm 四方に収まる美術」という演劇祭の制限の中で、よく頑張りました。

「過去の場面」は部屋の「内側」で物語が進み、「現在の場面」は部屋の「外側」で物語が展開していたことがラストシーンで明かされますが、この「内」と「外」の反転が本作の肝だと感じます。

美術に関しても、その「内」と「外」という両方の想像力の違いを担えるような工夫があるとより良かったのではないでしょうか。

劇場という「不便な空間」において、具象的に表現していくことが必ずしも観客の想像力に直結するわけではありません。

俳優の演技については、特にパスト役を演じた涼木直さんの演技に好感を持ちました。

アンドロイド(?)という役回りでしたが、相手役との関係性に焦点を絞って演じていたように感じます。

全編を通して暗転の多さが目立ち、冗長な印象もありましたが、二人の俳優の作り出す空気感や優しさの伝わるセリフのやりとりは素敵でした。今後も様々な戯曲に挑戦していただきたいと思います。

 

劇団ダダ『悦に浸れないなら死ね』

上演台本には、「テレビドラマ」「宗教」「幽霊」といった異なる3つのストーリーラインが混濁として流れており、良い意味で「難解な作品」でした。多様な解釈が可能な作品でした。

観客が自身の中でそれぞれに解釈することで、はじめて作品が成り立つという点では、参加チームの中で最も「現代演劇的な可能性」に挑戦していたように感じます。

個人的には「悦に浸れないなら死ね」というタイトルは「悦に浸れるなら生きろ」というメッセージであると感じました。

俳優も明確な意図を持って役割を演じているように見えました。登場人物が主人公を騙そうとしているようにも見えるし、反対に主人公を救おうとしているようにも見えることで、複雑な人間関係を描くことに成功しています。

どの俳優も高い水準で演技に取り組んでいると感じましたが、特に三橋健太郎さんの演技はユニークな身体の置き方をしており、楽しませてくれました。

俳優同士の身体的なコンタクトを用いたシーンについては、若干、踏み込みきれなかった感がありました。「舞台の持つ生々しさ」をもう少し味わいたかった気がします。

また、舞台美術の質感が丁寧に揃えられており、ベッドや窓枠といったシンプルなセッティングでありながら、十分に観客の想像力を担える空間に仕立てていたこともよかったです。

照明・音響についても、サブリミナルなレベルで微細な変化を行っていて、舞台への没入感を高めることができていました。

全体として演劇作品としての質が高く、同時代の作家の文脈も抑えようとしながら、また同時に観客の想像力を信頼して独自の表現を模索している姿勢に好感を持つことができました。

今後の作品にも大いに期待しています。

 

宮城学院女子大学 演劇部『ひだまり』

私小説的な戯曲なのかと疑うほど、台本と演技にリアルな空気感が通底していて、学生生活を覗き込んでいるような気持ちで観劇しました。

座組みのチームワークの良さと、本当に楽しみながら舞台のクリエイションを行ってきたのだろうということが伝わってきました。

また、小道具の作り込みやシュールな場面転換には驚かされました。

一方で、作品が個人史的な内容に終始していないかは検討してみて欲しいです。

自分のわかること、身近なことを材料に料理だけではなく、わからないこと、未知の食材にも挑戦してみて欲しいと思います。その時、このチームがどんな化学反応を起こすのか、とても見てみたいです。

ぜひこれからもチーム力を発揮して、楽しみながら、時に悩みながら、演劇を作ってみて欲しいと思います。